長岡亮介のよもやま話27「少数派の人の立場」

 最近マイノリティ少数派の人の立場を考えようという運動が、いろんな分野で進んでいます。人間は多数派と少数派にわかれたときに、しばしば多数派の意見が一方的に重視され、少数派の意見が無視される。あるいは少数派の生き方そのものは否定される、という傾向がなくはありません。実はこういうふうにお話する私も、ある面に関して圧倒的な少数派です。ある面というのは、一つは私の肉体的な問題あるいは頭脳的な問題というのでしょうか、私は実は視覚に関して、子供の頃からというかある時から気づいたのですが、障害者でありました。それはどういう障害かというと大した障害ではなくて、いわゆる色神、色を見分けるときにですね、赤色色弱っていうふうに言われるんですが、赤と緑が区別がつかないかというと、はっきりと区別があるっていうことは知っている。若葉の緑、それから椿の赤、鮮明に理解できるわけです。しかし両者が混在していると、混在していることに気づかない。言ってみれば「典型的な赤、典型的な緑は概念的にはわかっているんだけれど、それが混在していると、それを簡単に識別することができない」という色神異常と言われる病気といえば病気、これは遺伝性の病気ですから、病気というよりはまさに遺伝的なハンディキャップと言ってもいいんですが。

 実は正常な人がはっきり見える赤と緑の違い、それに対して私達は鈍感なのですが、私達というのは色神異常、赤色色弱と言われる人々、しかしながら、実はある分野に関しては、ある部分の色に関しては私達はものすごく敏感で、例えば戦車なんかでよく使われる軍事的な迷彩色っていうのがありますが、あの迷彩色というのは、ある自然状況の中に置かれたときに、それが軍人であるとか、戦車であるとか、軍事兵器であるとかっていうのが見えづらい。そういうふうに言ってみればカラープロテクションなんですね。色によって自らを守っている。しかしながら、実は私たち色弱者から見ると、あれはケバケバしい配色ですごく見分けやすい。迷彩色が迷彩色として機能しないっていうくらい、私達には派手に見えるわけです。これは聞いた話なので真実のほどわかりませんが、かつてアドルフヒトラーはそのことに注目して、各部隊に赤色色弱の人間を必ず配置した。そういう科学的なセンスを有していたという話があります。

 遺伝的に色覚異常の人は、実は性染色体に関連する遺伝病であるためになかなか多数派にはならないですね。永遠の少数派であるのかもしれません。ですから、私達はずっと異常者というふうに扱われ、普通の人たちが正常というふうに言われるんですが、私達から見ると正常の人たちというのは私達を持ってる色覚を持っていない。いわばハンディキャップを負ってるなっていうふうに思うわけです。どっちがどっちをハンディキャップというふうに思うか、それは多数派と少数派の違いでしかない。という意味では少数派の立場、考え方、あるいは能力、それを尊重することは、多数派の人にとっても大切なことだということを、一般論として言うことができるかと思います。

 しかしながら、実は私達は人間として社会を作って生きているわけですから、やはり友人のこと隣人のことそれに思いやりをもつということはとても大切なことであり、多数の人々がどのような立場で生きているか、ということも理解しなければならないわけです。少数派だからといって、その色覚異常の私達を標準にして信号を作るべきだというふうには必ずしも思わない。実際私自身は車のテールランプは全部赤とか黄色とか橙とか同じような色だと思ったんですが、実は夜間の照明等々、それからブレーキランプ、それは色が違うということをずいぶん後になって知りました。ちなみに信号も「赤・黄色・緑」そういうふうに言われていますが、私にとっては青というのは緑色に見えて、そして黄色と赤は両方共似たような色なんですね。しかし真ん中に付いてるランプは黄色、端っこに付いてるのは赤、とそういうふうに位置で区別しています。フォグランプと言われるようなランプは、私から見ると本当に赤と黄色の中間で、何とも目立つんですがそれを識別することが難しい。そういう面があります。そういう面があるからといって「信号機の色を変更すべきである。」というふうには必ずしも思いません。私は今の方式に十分慣れましたから、それで混乱することはないと思うんですね。救急車のランプ、外国のように青色を使ってもらうと、私達にはとても見やすいのですが、日本のように赤いランプであっても、私はそれが救急車であるというふうに理解できるので、それを是が非でも変更しなければならない、というふうに主張するつもりはありません。多数の人にとってメリットがあるという方向に社会が動いていること自身は、それ自身を持って異常だというふうには思いません。

 しかしながら一方で、少数者の存在や少数者の生き方、それを全否定するような傲慢な生き方、これは許されないことだというふうに思います。今は性的マイノリティのことがしきりと話題となるのですが、私のように数学が好きな人間は人類全体から見ると、残念ながら少数派のようですね。私の考えでは、それは本当の数学と出会った経験が少ないためである。なかなか本物の数学に出会えるチャンスがない。そのために小学校・中学校・高等学校のときにそういう数学に出会えなかった。そういう不運のためであるというふうに思うのですけれど、一方でそういう不運を跳ね返して一人だけで独力で数学ができるようになる、という天才的な人はいっぱいいるわけです。そういう意味では教育の成果、あるいは教育の影響と、数学の好き嫌い、数学能力とは必ずしも対応しないということも事実なんですが、私はやはり、一般の人々にとって数学の好き嫌いの分布がこのように偏っているのは、やはり教育が貧困のせいだというふうに思います。良い教育に巡り合うことの運不運、そういうものはどうしてもつきまとうというふうに思うんですけど。そういうふうに不運な人たちが多いからといって、幸運な人たちを差別するというのはおかしい。

 しかし、そういう幸運に恵まれた人たちが自分たちの幸運を誇りに思い、誇りに思うことは結構なんですが、そのような幸運に恵まれなかった人たちのことを軽蔑してその人たちが無能な人であるというふうに考える。これは甚だしく傲慢であるというふうに私は思います。というのも、実際に私は数学が得意だとか好きだという人たちの中に、本当はあなたたちが好きなのは数学ではなくて、数学の公式を使って問題を解くっていう、言ってみればサーカスの動物の芸のようなもの、それが得意だというだけであって、本当の意味で知的に数学が好きだというふうに言えるわけではない。他方、数学が嫌いだって言う人中にも数学は何が嫌いか、それは「数学は答えが一つしかない、だから嫌いだ」とそういうふうに答える人がいる。そういう答えを聞くと、意外にその人がとても数学的だというふうに思ったりもする。数学は答えが一つだから好きだっていう人の中には、私は数学が半分わかってる、半可通っていう言い方がありますが、半分だけはわかってるんだけど、もう一つの数学の重要な側面は理解できていない。そういう否定的な側面も感じるわけですね。

 数学ができない人の中に数学的なセンスを見れたり、反対に数学ができると思ってる人たちの中に、やはり数学はわかってないのにわかった気になっているという誤解を感じたりいたします。そういう意味では、数学に関して好きだというのは、言ってみれば人類の少数派であるかもしれませんが、その少数派に対してもですね、その人たちの生存権を否定するような言い方、あるいは数学が今度はできるという人たち、自分たちが少数であるということに誇りを持って、根拠のない自信を持って、数学ができない人に対して優位を主張する。これもどうなのかなっていうふうに思います。

 金子みすゞではありませんが、「みんなちがって、みんないい」という多様性に対する寛容さというのが、私達は常に求められているということを忘れてはいけないと思うんですね。「少数派であることは悪いことではない」というのは、私は色弱をとっても、また数学をとっても、それは明らかではないかというふうに思うんですが、一方で、少数派は多数派の人の意見というのに対しても胸を開いて聞く、そういう寛容さを持ち続けたいなっていうふうに思います。数学が苦手な人が、「数学ができるなんて、数学が好きなんて信じられない。こんな奴は気違いじゃないか」というふうに言うのを見ると、少数派を弾圧して平気な多数派の傲慢というのを感じます。そういう傲慢な人には決して明るい知の光は差し込まないというふうに考えるわけですが、皆さんいかがでしょうか?
 

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