長岡亮介のよもやま話26「成績を上げるとは?」

 最近つくづく考えることについてお話します。特に若い人に聞いていただきたいんですけれど。一昔前、私は若い頃ということだと、それはふた昔前とか三昔前四昔前そういうふうに言わなければいけないかもしれません。少なくとも20年あるいは30年前と比べると、もっと長く言えば半世紀前と比べると、最近の日本の風潮というのはちょっとおかしい。何がおかしいかというと、「何か人々が物を作り、人の役に立つということを、人生を生きる喜びを感じてる」というよりは「人を騙す、あるいはそれによって自分の利益を得るということに生きがいを感じてる」と私が疑いたくなるほど何かはしたないですね。

 昔から人間ははしたないものだ、というような達観したものの見方もあるかもしれませんけれど、私は少なくとも私が若い頃は、なんとなく人々が最低限の誇りというか悪く言えば見えでしょうけれども、人前で自分を見せる見えっていうものがあったように思うんです。所詮見えにすぎないから虚勢に過ぎない、あるいは虚栄に過ぎないかもしれないけど。人にやっぱり最低限よく見られたいという思いがあった、というふうに言うこともできるかもしれませんけれど、私としてはあんまりそのように悪くは取りたくないので、やっぱり人々が自分の生きがいというものを、他の人に役に立つことをやりたい、人に喜んでもらえることをやりたい、それを主に生きていた、というふうに思いたいんですね。

 ところが最近どうもそうではない。人に喜びを売るというか、人を喜ばせてその気にさせるとか、そういうことが主目的になってるんじゃないかという気がします。確かに人に喜んでもらうと、それは良いことなんですが、その喜びを売るっていうことになるとちょっと歪んでくる。例えて言えばどういうことかというと、勉強に関して言うと、「成績を上げます」というようなことをうたい文句にするサービスが最近すごく一般的ですね。そのことに、多くの人が疑問を感じなくなってるんではないかと思います。でも、本当のことを言うと、そもそも成績とは何か。成績を上げるとはどういうことか。ということをちょっとでも考えると、そのフレーズに非常に不潔なものがあるということに気づくはずなんです。それに気づかないということは、知らず知らずのうちにいわばその広告宣伝の手にまんまと乗っている、乗せられてしまっている。そういうことではないかと思うんです。

 なぜ成績を上げるということがおかしいかというと、まず成績ですが、成績はよくアチーブメントといいますね。達成したこと、達成された事柄が大きいものであるならば、それは立派な業績ということになるでしょう。しかしながら、学校の成績といったときに、その成績は一体何を意味してるんでしょうか? 低学年であれば本当に初歩的な基本的な「読み書きソロバン」と言われた世界ですね。簡単な字を書くことができる、あるいは読むことができる塾を使うことができる、という国語の能力。あるいは簡単な計算ができるという数学と計算能力。そういうものを確かに人間として生きる上で最低限必要だと、普通そういうふうに思われています。実は私自身はそのような最低限の計算も漢字の書き取りも苦手ですので、ある意味ではその最低限のレベルをクリアしてない、そういう人間であるということになってしまいますが、私は少なくとも基本的な原理はわかってるつもりです。難しい漢字は書けなくても、辞書を引いたら、その辞書の情報に従って正しい字を書くことができる。計算が複雑であっても時間をかけさえすれば、必ず間違いない回答を書くことができる。きっとできるそういう確信があるんですね。でも短い時間でそれをやれって言われることになると、ちょっと不安がないわけではありません。

 ところで、そのような最低限度の基本技術というか、基本の知的能力、それ達成するということが、成績が上がるということであるとすれば、小学校の1年生とか2年生において、そういう読み書きソロバンの基礎ができるということは大切なことでしょうね。そして、そのことを勉強しそこなった人たち、いろいろな理由から勉強し損なうということはあると思いますが、年をとってからでもそういう能力を身につけることをサポートする。これは社会の大きな任務であると思います。

 しかし、ちょっと学年が上がって小学校高学年、あるいは中学生、さらには高校生、そして大学生になったときに、成績っていったい何なんでしょう。例えば、大化の改新という日本史の大事件があります。その大化の改新が何年に起こったか、その大化の改新で大きな役割を演じた人としてどんな人がいるか。そんなことを知ってたからといって、単にそれを覚えていたからといって、それが意味があるんでしょうか? もちろんその大化の改新という動きを巡る歴史的な流れがどうであれ、どうであったか。そして、その大きな新しい流れによって何が変わったのか何が変わらなかったのか。というようなことをしっかりと考えることはとても大切なことでありますね。そんな昔のことではなくても、ごく最近のことでも構いません。日本が戦争を仕掛け、そしてその戦争に負け、ドイツやイタリアと三国同盟というのを結んでいながら、ドイツイとタリアが降伏した後も日本は戦争を続けて、その戦争の末期にいったいどれほど多くの人が犠牲になり、本当に戦闘員でもない人まで含めて大量の犠牲者が出てる。そして、それが何によって起こったのか。なぜ日本は終戦を早めることができなかったのか。というような問題、これについて考えることは、そして、それについて調べることは、とても貴重なことですね。大切なことだと思います。

 しかし、戦争がいつ終わったか。何月何日に終わったか、そしてそのときに降伏署名、全面降伏の署名に行くとき、代表団に誰がいたか。代表者の名前はきっと誰でも知ってる名前でしょうけど、その代表者に随行した官僚っていうか、役人として誰がいたか。そんなことまで覚えてる人はあんまりいないと思いますけど。そういうような単なる事柄を覚えているだけだとすれば、意味がないですよね。そういうことを知っていることが学力だっていうふうに言うとすれば、それは例えば歴史とか社会科とかっていうものに対する根本的な無知を表している、と言ってもいいと思います。あるいは自然科学でもそうですが、オームの法則とかスネルの法則とか、そういう簡単な電気とか光の屈折に関する原理、これは小学校とか中学校レベルの数学でも理解することができるものでありますから、学校でそういう話を習うことあると思います。しかし、習ったから一体何なんでしょう。そのことがわかったことによって、人生、どれだけ広がって見えるんでしょうか?

 もし、屈折ということがわかることによって、例えばカップあるいはグラスに、ストローあるいは箸を入れたときに、それが曲がって見えるという現象の原理が理解できたとすれば、それはそれで素敵なことですね。でも、単にスネルの法則こういうのを覚えてるだけだったら何の意味もない。そう思いませんか? オームの法則にしてもそうです。並列抵抗あるいは直列抵抗の場合について、電圧と電流と抵抗の関係を言える。これは自然科学に関する知識っていうんではなくて、知識もどきですね。それはなんちゃって科学って言ってもいいと思うんですね。

 いわば理想的な現象として、そういう法則が成り立ってるような世界が理想的には存在する、という自然科学の出発点ではありますけど、それによって何事かを説明するんじゃなければ全く意味がない。電流とか電圧とか抵抗という言葉が意味しているものを理解せずに、その公式に従って答えが出せるというだけであれば意味がない、と私は思うんです。学校で習っていることのうちで大げさに言うと99.9%くらいは、現在の学校で習ってることだと意味がない。そういうただの知識のための知識になってるんではないでしょうか?

 私は知識が大切でないと言っているのではありません。知識を本当に自分の血や肉とするような教育なければ意味がない、と言いたいわけです。表面的な知識は10年したら完全に忘れてしまうどころか、3ヶ月での忘れてしまう、場合によっては2日経ったら忘れてしまう、そういうような知識を試験で判定して成績をつける。そんなものだったら成績がいいというのは何の意味もない。それは言ってみれば短期記憶が良いということであって、短期記憶ができるということは、それほど人間が頭脳が単純であるということで、あまり褒められたことではないと思うんですね。成績が良いことっていうのは、むしろ大げさに言えば知的でないということを意味している、ということさえ言えるのではないかと思います。

 こういうふうに考えると、そもそも成績を伸ばすっていうことは何を意味してるか。成績をつけるのは所詮学校の先生に過ぎない。学校の先生というのは、その科目に関して多少の知識を持っていて、その知識が正確に伝わってるかどうかを試しているに過ぎない。そういう試験をやっているに過ぎないとするならば、成績が上がるということは、知的であることからむしろ遠ざかっているということであって、本当に学校で学ばなければいけないことは、そういう成績につけられない知識のありようっていうんでしょうか、自然をどのように見るとあるいは社会をどのように見ると違った姿で見えてくるか、ということを実感的に体験するということ。これが一番大切なことであるはずなのに、それと正反対の方向に成績を伸ばすということを位置付けるとすれば、私はそのように強く感じてるんですが、成績を上げるということは、むしろ人間の一生にとって最も大切な若い時代を、無益に過ごすということに繋がりかねない。そういう危険なことではないかとさえ思うわけです。

 「成績は良いに越したことはない」という言い方は説得力がありますけれど、それは成績が多分上がったことがない人にとってなんでしょう。本当の意味でわかるということを経験したことのある人にとっては、成績なんかよりは大切なものがあるということ、それは自分で本当にわかるという経験ですね。そういうより大切なものがあるということ。それがしっかりわかっていれば、「成績を上げます」というような謳い文句にいかに多くの虚偽、許されない嘘があるか、そしてそのような言葉に騙されては決してならないということが、わかっていただけると思います。いわゆるセールスマンが、「売上成績がいい。」これは会社にとって利益になることですから、それは会社にとって良いことであり、そのセールスマンにとって収入が上がるという意味では、いいことですが、勉強に関して、こと勉強に関して、「成績がいい」ということは果たして意味を持つのかという問題を、ぜひ考えていただきたいんですね。

 わかりやすい例として、これを聞いている大人の方にとってならば一番わかりやすいのは、大学では第2外国語、日本人の場合普通第1外国語として英語を勉強しますが、英語でさえ少し忘れ気味っていう人にとっては、大学で学んだ第2外国語、普通の人はフランス語とかロシア語とかドイツ語とか取るのですが、第2外国語の知識あるいはその成績、それが人生で役に立ってるかどうか。多くの人はそこで単位を取ったはずですけれども、一応履修したということの証明書をもらっているわけですが、自分の実力として身に付いているかどうか。ドイツ語で言えば、例えばDeutschlandliedドイツの歌、シューベルトの冬の旅とか、そういうのを口ずさむことができるかどうか。あるいはゲーテの本の一節、ニーチェの言葉の一節でも自分のを物として語ることができるか。というふうに言ったときに、生きた知識としてものになってる人はすごく少ないのではないでしょうか? フランス語でもそうですね、シャンソンが口ずさめるという人、あるいは最も有名なフランス文学というと最近では星の王子様かもしれませんが、星の王子様をフランス語で読めるという、そういう力を大学で身につけた人はどれほどいるでしょうか? 

 そういう本当の意味で生涯にわたって続く力こそが大切なのに、成績だけが上がる、単位だけが取れる。フランス語の成績が優であった、でも今は定冠詞の活用も言えない。こうだったらもう話にならないというべきではないでしょうか? 成績というのは、そのような一過性のものとして扱われることが多い。そんなものは本当は意味がないということに、やっぱり多くの人が気づくようになってほしい、と願うのですが、どうしても学校の成績というのが人生を支配している、とそう思い込んでいる人がすごく多いのですね。これは大きな誤解だと思います。

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