長岡亮介のよもやま話25「数学ができるということ」

 数学できるとそれだけで「頭が良い」と言ったり、逆に数学が苦手であるとそれだけで「頭が悪い」と言ったりする習慣が日本では深く根付いているような気がしています。

 もちろん、何かができる何かができないっていうことの間には、ある決定的な差がしばしばあるもので、走るのが速いこと、高くまで跳躍することができる人、遠くまで飛ぶことができる人、そういう身体能力というのは容易に代われるものではありませんね。やはり私も子供の頃、「運動神経がいい人」という言い回しは大きな説得力を持っていたように思います。「運動神経」という神経があるというふうには思いませんけれども、大脳あるいは小脳の神経系の支配する領域において、各個人に決定的な能力の差があるということは事実だと思います。そして、その厳粛なる限界をも実は日々の練習によって、場合によっては乗り越えることができる、時には持っている才能以上の能力を発揮することができるということもあるかと思います。

 ひるがえって話を元に戻して数学の話ですが、学校で学ぶ数学程度の内容で、頭がいいとか悪いとかということを判断することは、あまり適当ではないように思います。というのは、やはり小学校から高等学校までのいわゆる学校数学、school mathematics と言われるものは、言ってみれば「現代文化の中に生きる人にとって最小限の基礎的な教養」という趣旨で大切なことではあるけれど「それぞれの科目においてそれが良い得点を取れるか取れないか」ということで、人の能力を測るということができるわけではないと思うからです。

 例えば、字が綺麗な人は素晴らしいですね。私のように字が下手な人間からすれば、立派な字を書く人はそれだけで大変に素晴らしい能力だと思います。しかし字が上手だから、その人が頭がいいかというと、「字は体を表す」という言葉もありますから、確かにその人の人格のある部分を表しているというのは確かだと思いますが、字が上手だから頭がいいという言い方は不適当だと、皆さんも納得してくださるでしょう。同じように、漢字をたくさん覚えている人、この人は漢字に関する知識は大したものだというふうに言うことはできますが、それによって文学作品を深く読める人だとそういうふうに思うことは、まずないのではないでしょうか?

 同じように数学に関して言うと、学校数学の範囲の問題というのは、言ってみれば問題のための問題、つまり、ある制限時間内に普通に勉強してる人ならば、解けて当たり前、場合によっては解けなくても気にしなくてよろしい、という程度の問題であることが一般的でありまして、数学者が取り組んでいる問題というのは、言ってみれば1年かけても2年かけてもあるいは10年かけても20年かけても解けない、そういう問題に挑戦しているわけでありますね。あんまり時間がかかりすぎて解けない問題だと、結局仕事ができない、業績が上がらないということになりますから、それぞれの数学者は自分なら解けるだろうという程度に問題の易しいものを探して、それを攻撃してるというわけでありまして、それでも1、2時間で解けるような問題というのは、数学の問題として、たかが知れているわけです。それは大して面白い問題ではないということですね。

 反対に言えば、学校数学の問題というのは大学入試レベルであっても、せいぜい2時間とか3時間とか、そういう制限時間内で解けるわけですから、そんな問題はある意味で解けるに決まっている問題、つまり出題者が解法がわかっていてその解法であれば時間かければできるなという時間、制限時間を設定した中で、この程度だったら無理じゃないだろうと出題してるものでありますから、その数学の問題が解けたからといってどうってことないわけです。例えば、皆さんが小学校一年生であれば「2+3」という問題が出て、それが「5」っていうふうに答えられるということは、素晴らしいことだというふうに言えるでしょう。小学校一年生がもし引き算まで出来て、「12−5」という問題に「7」っていうふうに正解が出せるとすれば、それで素晴らしいということになるでしょう。しかし、それが小学校6年生の問題であるとすればどうでしょうか? 小学校6年生であればそれはできるに決まってますね。

 同じように中学や高等学校の問題も、実はほとんどの問題が「できるに決まっている問題」といっていいわけです。中にはクイズとして、あるいはパズルとして難しい、ちょっと頭を使わないとできないと、「頭を使う」という表現がそもそも誤解の元だと思うんです。要するに、puzzling、「頭を悩ます」、そういう一種の試行錯誤を伴わないと正解にたどり着けない、そういう問題は数学に限らず世の中にはあるものでありますが、数学ではそういうパズルのような問題がいくらでも作ることができます。そして「そのようなパズルが解けることが大切だ」っていうふうに、多くの人が誤解してしまうんですね。大切なのは、それはパズルに過ぎない、ということを見破ること、そのパズルの面白さがどこにあるかということがわかること、あるいはさらに言えば、そのようなパズルを自分で作ることができること、これが学校数学で言えば、ある種の最終目標でありましょう。そして、その最終目標に易々と到達することができる少年少女がいれば、つまり、例えば高等学校レベルのパズルに近い問題、それを小学校や中学校の学年のうちにできるようになると、そういう言ってみれば「ませた人」がいれば、それはいわゆるIQ、知能指数っていうふうに言われますが、要するに発達年齢、年齢のわりに肉体年齢のわりに、頭脳の発達が早い、そういうことだと思います。

 数学や自然科学においては、知能の発達が早い人よりも早くそういう境地に達しているということがしばしば重要なのですが、それが最も大切なのか、というとそうではない。本当は早いことよりももっと大切なことがある。そのことは学校教育の中ではほとんど強調されていないように私は思います。それは曰く言い難いといえばそうなんですが、皆さんのためにわかりやすく私の言葉に直して言うとすれば「遠くまで行くことができる」、そういう知性を持つこと、「遠くまで見渡せるような視界の広さを持つ」こと、あるいは「遠くにあるものを正確に発見することができる」こと。そういうその視界の広さ、あるいは視野の広さ、視界の遠さって言ってもいいかもしれません。そういうものが本当は一番大切なのであって、人よりも早く、短距離走のような知力が一番大切なわけではない。短距離走の力もときに大切ですが、本当に大切なのは長距離走に耐える知的な体力である、と私は思っていますが、いかがでしょうか? 多くの人がこの最も基本的な事柄について、ずいぶん大きな誤解をしていると思いませんか?

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