長岡亮介のよもやま話21「優しさという風潮」

 今日は最近主流となっている風潮について、私が考えていることをお話したいと思います。「私が」と申しましたけれども、実は決して私の独創的な考えではなく、つい最近までは当たり前だったけれども、最近ではいわば「従来の常識が完全に通用しない」、「従来の常識が完全に克服されるべきものというふうに多くの人は考えている」という現在の風潮について、それはどうなのかという問題提起です。

 私達の使う日常的な表現、私達の気楽に使う言葉が他人をひどく傷つけるという可能性について、私達は慎重でなければならない、ということは紛れもない事実であると思います。私達はそれが本当に意図せずに人を傷つけるということがあるとすれば、その可能性に対して敏感でなければならない、ということですね。人を傷つけることはどんな人でも望んでいることではないはずですし、私達はその危険性を最小にするように努めなければならない、ということもまた間違っていないと思います。

 しかしながら人が傷つくということを、何か普遍的な問題、普遍的な現象、つまりこうすれば必ず人が傷つくというふうに定式化することは難しいことである。つまり場面場面に応じて、あるいはその受け取り手のそれまでの人生の様々な出会いによって、全く意図せずにその人が多いに傷つくという可能性がある。そういう世の中になってきている。世の中が変わってるというよりは、人々が一人一人が生き抜く上でのたくましさというものを少し失い、繊細になってきている、そういうふうに言ってもいいかもしれません。人々が繊細になるということは様々なことに敏感になるという良い意味もありますけれども、生物体としてはやはり自然界の様々な競争、言ってみれば自然の掟の中でたくましく生きるということは常に求められているということを忘れてはならないわけで、「自然界の頂点に君臨するというふうに思われている人間が、自然の中で最もか弱い存在である」というのは本当は少し問題ではないかと思います。

 そして、今の教育が人間の持っている本来のたくましさ、自然の中でたくましく生きていく力、それを養育する、育み育てるということですね。そのことにあまり力点が置かれてないとすれば、それも問題ではないかと思うんです。たくましいということは格闘技の選手たちだけに求められることではなく、自然の中で人間が生きていくためにみんなが身につけなければいけない力だと思うんですね。よく自然は優しいというふうに言う人がいるのですけれど、私は自然はとても厳しいものだと思うんです。植物たちを見ていると本当に懸命に生きている。自分たちの生命の繁栄のためには他の生命を犠牲にすることもいとわない。そういうたくましさを植物でさえ持っている。動物はいうまでもありませんね、そしてその動物の頂点に立つとみんなが思っている人間が、そのたくましさから段々離れていってしまっている。どんどんどんどん、良く言えば垢抜けている。でも、悪く言えばもやしっ子のようになっているという現状は、私は決して好ましいことではない、やはり自然の掟それを人々が成長する過程の中で学ぶことが重要ではないかと思うのですが、いかがでしょうか? 

 私は優しいこと、人に優しいこと、特に弱い立場にある人にその立場にいる人のことを考える、という心の優しさは人間だけが持っている人間のいわば同胞に対する友情、これは本来とても貴重なそして気高いものだと思いますけども、その気高さと離れて、腫れ物に触るように他人を扱うというふうになると、それは決して健全ではないのではないかと思います。人を腫れ物に触るように接する。そういうのが優しさであるとすれば、私はそれは表面的な優しさ、あるいは偽装された優しさであって、本当の意味での優しさとは異なるんではないかと。もっとわかりやすい、はっきりした言葉で言えば、それは無責任な優しさ、あるいは優しさを装った無責任ではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

 私達は本当の意味で人に優しくなるべきである。そしてそのときには、その人のために時には厳しいことも言わなければならないということもある。親が子供を育てるときのように、やはりしつけというのは時に厳しいものであると思うんですね。しつけというのは、幼少期の話でありますけれども、青年期、そして青年から大人になっていく、その段階においても、人々は多くのことを学んでいかなければいけない。その学んでいくときに、もし一人一人の人間が腫れ物を触るように扱われているんだとすれば、それは一人前の人間として成長することを阻害する危険さえあるのではないか。そういう表面的な優しさを持つ、あるいは偽善的な優しさの持つ「虚偽」というものに、私達がもう少し敏感であってもいいのではないか、と思うことが再三ある日々です。

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