長岡亮介のよもやま話20「profession」

 今日は教育に深い関係が実はあり、普通はあまり関係がないと思われている事柄についてお話いたしましょう。現代という時代は、ある意味で人々が十分な余暇というか、自由にできる時間を使うことができ、それぞれの人の適性・能力に応じて自分の可能性を磨くというチャンスに恵まれた社会が、先進国を中心にできていると思います。学問においてもそうでありますが、実は芸術の分野においても、またスポーツにおいても、あるいはまたいわゆる文化というか芸能という世界においても、ある意味でその分野に特化した専門的なトレーニングを積んできた、そういう人が活躍する時代になっているのではないかと思います。

 そのことがもたらしている良い面というのは、言うまでもなく大きく存在するわけでありまして、かつては考えることもできなかったような、例えばスポーツで言えば、演技、記録、それが可能になってる。それを可能ならしめているのは、そういう各競技の選手たちがその分野の専門的なトレーニング、それに生涯をかけて取り組んでいるということと、そしてそれと並んで重要なことは、その競技を支える周辺の様々な事柄、特にいわゆるスポーツにおいてはスポーツ競技を支えるための道具、スキーで言えばスキー板、ホッケーであればホッケーのスティック、スケートで言えばスケートの靴あるいはエッジ、そういったものが、従来は言ってみれば裸足でオリンピックのマラソンに優勝するという選手が出たことはつい最近のことであるのですけれど、今ではそれが考えづらくなってきてる。

 ある意味で、運動靴までプロフェッショナルの活躍が非常に大きな貢献の材料となっている。水泳であっても水着が大切であるということが認識されるようになってるわけですね。私が子供の頃は信じられないことでした。ある意味で全ての分野でこういうプロフェッショナルと言われる人々が活躍してるということは紛れもない事実だと思うんですが、そういうプロフェッショナルな人に支えられていろいろな記録が塗り替えられていく。人類の明るい未来を感じさせて嬉しいニュースである反面、なんとなくそれを言ってみれば「プロフェッショナル」、職業ですね、プロフェッションにするという人が多くなってくるっていうこと自身は、必ずしもいいことではないんじゃないかなという気もするんですね。

 例えばクーベルタンが近代オリンピックっていうのを19世紀の終わりに復活させたときに、古代のギリシャオリンピックとはまるで違うものとして、平和の祭典として古代のオリンピックの精神を近代によみがえらせるという理想で行ったわけでありますね。そのときにできたオリンピックの憲章、チャーターがあるわけですが、チャーターも繰り返し修正された。当時の近代オリンピックではアマチュアリズムということが何よりも優先されたわけでありますが、あるいは国家主義ではなくて個人の努力が称えられるべきで、国家の代表というわけではない、国家間の競争ではない。それが強調されたのですが、最近では全く違う風潮になってしまっていますね。これはある意味で「プロフェッショナリズムが招いてしまった負の成果」であると思うんです。私はそういうプロフェッショナルのポジティブな面と、同時にネガティブな側面を見なければいけない、そういうふうに思うんですね。

 こんな話をしようとしたのは、「教師は教育のプロフェッショナルなければならない」という言葉が、時々聞かれるようになりました。何か子供を教える技術に関してプロじゃなければいけない、と信じてるんですね。保護者の中にもそれを信じてる人がいるかもしれません。私に言わせれば、本当の意味でのプロの教師というのは、職業としての教師というのは、「30年やっても40年やってもいつまでも新しい子供に出会うときの新鮮さを感動を持って迎える」ということのできる初々しい精神を持っているということで、昨日と今日が同じ、あるいは明日が一昨日と同じ、そういう毎日になってしまったら、本当は駄目なんじゃないか、と思うんですね。つまり教育において本当にプロフェッショナルであるということは「毎日プロフェッショナルでないこと」、つまり毎日毎日新人教師のように子供たちに接することができること、これが本当の意味での教師であり、その教師を実際に実現するのは深い教養であったり、毎日の勉強であったりするんだと思うんです。毎日の自己研鑽、自分自身に対する学習、それを失ったときに、教師はいわゆる教師をプロフェッショナル、職業として生きる、そういう人になってしまう。そうなると、教育という仕事、尊い仕事だと思うんですが、非常につまらないルーティンワークをそつなくこなす、という魅力のない職業になっていってしまうのではないかと思います。

 大学の先生のことをよく「教授」っていうふうに言います。英語では professor って言いますけども、professor という言葉も、profession 職業っていう言葉からきたわけで、本当は学者というのは英語で言えば scholar、academician そういう人であったわけですね。それが「大学というところで教えるということを職業とする」というふうになってからは、professor っていう仕事がそういう名称で呼ばれる仕事ができたわけでありますが、それ以前、一流の学者というのは academician であって、決して職業人ではなかったわけですね。ちなみにフランス語では大学に限らず幼稚園であっても先生のことは professeur、そういうふうに言うわけで、「職業を持って教育に携わる人」という程度の意味でしかありません。

 日本では教授という言葉が何か特別に学識が深い、そういう人のこと意味する言葉であるかのように、誤解して使っている風潮があると思いますが、所詮それは professor、profession に過ぎないってことですね。本当の意味での academician というのは単なる職業ではない。同様に、教員もただの職業人ではない、と私は思っていたい。そしてスポーツとか芸術とか、そういう大変な厳しいトレーニングを日々積まなければならない、そういう職業、それを職業とする人もその職業を超えて、いわば普遍的な人格として生きるような人生を送れるような最小限の教養の基盤、それを持ってほしいと願っています。

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