長岡亮介のよもやま話19「Beautiful Letters」

 今日は珍しく数学のお話をしたいと思います。というのも実は昨晩、私は動画サービスで「Beautiful Letters」というタイトルの映画を見ました。元々原題は「The Letter Writer」っていうタイトルですから、「Beautiful Letters」ってのはずいぶん変な訳なんですけれど、手紙が重要な役割を果たす映画なんですね。Letterっていう言葉にはいろんな意味がありますけど、手紙っていうのが一番基本的なものでしょう。しかし、その手紙という文化がずっと続いてきたのに、無くなってずいぶん時を長く過ごしてると思うんですね。考えてみると、私が子供の頃は郵便というのは、封筒に入ってきて、宛名が書いてあって、郵便切手が貼ってあって、その封筒や郵便切手の中に送り手の気持ちが込められていて、自分も気持ちを込めて封筒を選び、便箋を選び、一生懸命丁寧な字を書いて、とっておきの郵便切手を貼って出すということがあったものでしたけれども、最近はそのレターというのがなくなってしまいましたね。日本ではメールっていうと、もうEメールのことを指してるっていうふうに思ってる人も多いと思いますが、Eメールの普及、昔は電子メールっていうふうに言いましたけれども、電子的な郵便でありますね。そのシステムが普及してずいぶん便利になった。便利になったけれども、ある意味で万年筆を取って一字一字文字を書いて、それをお気に入りの便箋に書いて、お気に入りの封筒にそれを入れて、入れるときも折り畳むときにもいろんな神経を配って折りたたみ、封筒に入れ、切手は貼って出して、投函して返事を待つ、というのも考えてみると本当に懐かしい思い出です。私も目が悪くなったこともありますけれども、本当に郵便を書かなくなりました。

 私のところにも郵送されてくるものは、大体全くコマーシャルのろくでもない郵便で、直ちにゴミ箱に行くというものが圧倒的に多くなりました。郵送されてきたものもほとんど印刷物で、綺麗に印刷されてはいるけれども何の心もこもっていない、そういうものばかりになってしまいました。郵便レターっていうものの持っていた意味がすっかり失われてしまって、情報伝達の手段っていうふうになったときに、だったら電子情報の方が便利だっていうことになってしまうわけですね。しかし電子情報だと読み飛ばされるので、最近では本当にえげつなく広告がもう自動的に割り込んでくる。そういう大変に不愉快な世界にも直面しています。

 そういう意味で、私としては手紙が主人公になってる映画であると思って、ちょっと懐かしさもあって観てみたんです。その中に出てきたすごく面白い話が、冒頭部分から数回流されるんですけれど、要するに主人公の少女が、おそらく高等学校だと思いますが、学校の勉強に退屈してるんですね。学校の勉強っていうのはその子の学校に限らず、よほど良い環境に恵まれた人でない限り、大体つまらないと思います。私も一番私の青春時代で輝いていたのは中学高校だと思いますけれども、中学高校はもう一度繰り返したいと思わない。なぜならば、それが退屈な時間であったからです。もちろん学校生活の中に楽しい時間もたくさんありましたけれども、およそ勉強の時間はほとんどがつまらなかった。例外的にワクワクする授業があったということは、私にとって人生の幸せだと思いますが、多くの人にとって、学校の授業の時間というのは本当に退屈でくだらない授業、そういうつまらない時間ではないかと思うんです。

 まさに私が今紹介している映画「The Letter Writer」ってという映画、日本では「Beautiful Letters」という題の映画の中でも、少女が退屈している。その退屈してる授業は、数学の授業なんですね。そしてその数学の先生が言ってることが、私が聞いていてもつまらない話なわけです。おそらくは学校の先生というのはどうも、本当に学問が面白いと思って自分がその数学的な発見の躍動感の中にその躍動する気持ちを生徒に伝えたいと思って教えてるんではおそらくなくて、何か絶対必要な知識と彼が信じているものを、本当は必要でも何でもないのにそれを無理やり押し付けてる、ということがあるのではないかと改めて思いました。

 おそらくこれを聞く人の中には、数学が好きだという方が多いと思うんですけれども、数学を本当に、冒険小説を読むように、あるいは推理小説を読むように、あるいは感動的な漢詩を読むように、数学を理解してる、あるいは理解しようとしているという人は、本当に少ないのではないかと思うんですね。最悪の場合は、決まりきった問題の解法の手続きを強制的に覚えさせられているだけ、あるいは強制的にじゃなくて自発的に覚えてるという人もいます。最近入学試験のシーズンということで、天下の公共放送もそういう受験生たちを「頑張る受験生」というタッチで取材しておりましたけれども、馬鹿げたことだと思いますが。

 その勉強というのは、受験に象徴されるような本当に一瞬で勝負する、言ってみれば短距離走の実力、それが勉強だというふうに多くの人が信じて疑っていない。というのは、おそらくはやはり学校における勉強体験というのが、そのようなものでしかなかった、ということなんだと思うんです。瞬間的な瞬発力、それもアスリートとして大切な能力であることは確かです。しかしそれと同時に大事なのは、長距離を走り抜けるマラソンのような力であり、そのマラソンのための練習を365日続けるような持久的な努力、その持久的な努力が「艱難辛苦」っていうような言葉に象徴されるような苦労の連続というんではなくて、そこに楽しみがあるというものである。ということを、あまり多くの人が理解してないんじゃないか。少なくとも学校における勉強というものが、そのように大きく誤解されてるんではないか。短距離走で成果を出すということのために勉強があると、思われてるんじゃないかということですね。

 もし本当に勉強を言ってみれば発表会というのはそのようなものであるとしても、その発表会の前に事前の準備があり、その長い準備期間そのものが充実した時間であるという。スポーツでも、あるいは音楽でも、あるいはいろいろな芸術活動、文化活動でもみんなそうである。そういうものとして勉強を捉えることができたならば、入試っていうのは言ってみれば試験の発表会、試験に限らないかもしれませんが、要するにそういうエキシビジョンみたいなもので、一つの目標ではあるけれど、最終目標でも何でもないということを理解してもらえると思うんですね。

 そして、そのことが正しく理解してもらえれば、日々の勉強が退屈な、言ってみればつまらない数学的な知識の暗記におとしめられているとしたら、それは極めて残念であるということですね。皆さんの中に数学なんてあんまり面白くないって思ってる人がいたら、やはり皆さんは不運なことにあまりいい先生に習わなかった、あるいは良い友達に恵まれなかったということで、その不運に見合う幸運を皆さんは掴んでいるはずですから、その幸運を利用して人生の不運を補っていってほしい、というふうに私は心から思います。残念ながら今良い数学の先生というのは、世の中で少数になってしまったようでありますので、日本人のほとんどの若者は不運なんだと思いますが、その不運に勝る幸運がきっとあるに違いない、と私は願って信じています。

 天はそのようにバランスの悪いことはしないものです。皆さんの大きな不運がきっと大きな幸運のための一つの準備なんだと思います。そしてその一つの幸運は、皆さんが数学はこんなに面白かったんだった、ということをやがて発見するという幸運なんじゃないかと私は期待してるんですけど、それは私が虫が良すぎるということかもしれません。皆さんの、できればポジティブな反応を期待しています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました