長岡亮介のよもやま話15「賄賂体質」

 今日はちょっと政治の問題についてお話したいと思います。政治家、あるいは高級官僚といった非常に強い権力を与えられた人間が、その権力を利用して私腹を肥やすということ。それはよく収賄というふうに言われるわけですが、賄賂をもらう許せない行為として、人々は非難する。しかしそういう非難は、おそらく自分は賄賂には関係ない、賄賂にありつくことができない、という一種の僻みというか、「賄賂をもらう人に対してそういう特権を行使することがずるい」、そういう感情からきているような気がします。言い換えれば、「自分も機会があったならば、賄賂にありつきたい」、そういうふうに思っているところがどこかにあるのではないでしょうか?

 というのも実は政治家にしろ、官僚にしろ、そのような賄賂をもらうような人間を選んだのは、まさしく私達国民であるからだと思うんです。今盛んにウクライナの問題が語られていますが、実はウクライナはいわゆるソ連の崩壊以降、多くの政権交代がありながら、そのたびに賄賂問題が非常に大きな争点になってきました。日本のごく近くの韓国でも、大統領という最高権力の交代のたびに賄賂の問題が大きくクローズアップされます。

 ある意味で民主主義という政治の中では、「賄賂の問題というのが永遠に付き纏うほど宿命的な問題である」ということを私達は意識する必要があるのではないでしょうか?そして、そのような汚い政治、汚い法治、それに私達が配慮して健全な民主主義を守るためには、国民自身が決然として、そのようなものと別れて生きること、そのことがとても大切ではないかと思うんですね。人の賄賂を非難するのではなく、賄賂を摂って私腹を肥やすような人間を決して選ばないということ。このことが民主主義社会で最も重要な基礎であり、民主主義社会で教育が大切にされるのも、このことが大きな理由になっているように思います。

 私達は賢くなければいけない。政治家や官僚、そういう一部の特権的なエリートたちよりも、それを選ぶ側の私達はもっともっと賢くなければいけない、もっともっと潔く強くなければいけない、ということを教えているんだと思います。もし人間が自分たちの利益を誘導してくれる人を自分たちの利益代表として送り出す、そういうような体質を持っているならば、政治家や官僚の賄賂体質は実は国民の賄賂体質で、賄賂をもらった人、収賄した人だけを非難して済むわけではない、ということ。そういう当たり前のことを、私達はもっともっと深く自覚する必要があると思います。

 とりわけ日本のように政府が肥大化して大きな力を持つようになると、結局政府の補助金をもらわない限りは私達の生活は良くならない、という思いが国民の中に根付いていくのではないかと。しかし、そのようにして私達が自分たちの利益のために代表を選ぶというような発想から脱却しない限り、決して賄賂はなくならないということです。実は「政治家は私達の鏡だ」ということを私達はしっかりと理解する必要があるのではないでしょうか?コロナ危機を巡る政府の混乱についていろんなことが言われている。しかしながら結局のところ、私達が科学的な根拠に基づいて議論を進めることがいかに難しいことであり、それが責任を伴うことであるかということわかってないからこそ、井戸端会議的にコロナ問題を論じている。そういうレベルあるからこそ、あのような低レベルな行政を招いているということに、私が気づくべきだ、というふうに思います。

 私たちがもっともっと勉強しなければ結局世の中は良くならない、ということ、そういう当たり前のことについて私たちはもっと自覚すべきだと、私は考えています。いかがでしょうか。

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