長岡亮介のよもやま話14「トルコ・シリア地震に思う」

 痛ましい事件がトルコ・シリアの間で起きました。事件といっても自然災害ですから、具体的に人間とか国家の責任というふうに簡単に断定することはできないわけです。人間は自然に対してずいぶん強い立場になったというふうにみんな思っていて、「自然災害は全て人災である」という言葉もあるくらい、ある意味で人間が強くなった。その人間を強くしたのは、まさに自然科学に裏付けられた新しい技術、近代的な技術の成果であると思いますが、一方で流行のウイルス感染症を含め、私達が自然に対して持っている武器というか、対抗手段は極めて限定的であり、決して18世紀19世紀の人々が考えたほど、私達の持っている力は自然に対して決定的なものではない、ということをやはり忘れてはいけないと思います。
 私達がもし近代的な技術を持たなければ高層建築をすることもなく、また大都市に集中的に住むということもなかったかと思います。近代的な文化の良い面は数え切れないほどあるはずですが、一方で私達の持っている文化の脆弱性、自然科学に裏付けられた近代技術、それを基盤とする私達の文化は、その基本において脆弱、つまり弱い部分を抱えているということを、私達は常に自覚しなければいけないと思います。そして、そのような脆弱性を、例えば「地震に対する対策が甘かった行政府の責任である」というふうに誰かに責任をなすりつける、ということで済ませてはいけない、と思うのです。もちろん「耐震的な準備が十分でなかった」「耐震基準が緩すぎた」、地震に対する対策の意味ですね、そういう指摘は誰でもできると思います。

 しかし、私はそういうのは一種の「後出しじゃんけん」であって、事件が起こってからその過去にさかのぼって原因を究明する、というようなことが大好きな人がいますけれど、やはり大切なのは、今を必死で生きている人々のことでありまして、その人々たちがある意味で近代的な産業、近代的な文化、近代的な生活、そういうものに向かわざるを得なかった、私達の現代という時代の持っている一種の歪みというか、歪な成長、そのことに目を向けないといけないではないかと。これが、私がこのような事件が起こるたびに思うことです。

 私達は私達の文化文明に対して驕りすぎているのではないか。私達が達成したこと、近代になって達成したことというふうに言えば、特にアイザック・ニュートンや、さかのぼることヨハネス・ケプラー、ガリレオ・ガリレイとか、数学を使って宇宙の原理を究明するということに関しては本当に輝かしい成功を収めたし、その方法が実はその他の部分、私達のごく身近な生活に近い現象を解明することにさえ役立ってきたということも事実でありますが、その延長上に「何でもかんでもできる」というふうに私達はつい考えがちなのではないか、ということが少し心配になることです。私達は実はほとんど何もまだわかっていない。何も知らない。ただし「中世以前の人々が全く知らなかったような世界を垣間見ることができる」というところまでは来た。これは人類の脈々たる歴史の中で、わずか数百年間に到達、あるいは達成した偉大な成果ではありますが、一方で、ほんの小さな成果でしかない、という謙虚さを私達は決して忘れてはならないのではないか、そんなことを考えるわけですね。

 先ほど「後出しじゃんけん」の話をしましたが、最近はとても驚くことを発見しました。昔「天気予報」と言ってた言葉が「天気情報」というふうに言い換えられてるんですね。多くの人がまだ気がついてないかもしれません。しかしもう「予報」といっても本当の意味で「予報」になってるわけではない。競馬の予想屋というような意味での「予報」ではないわけですね。気象予報士と言われる職業の人が、あるいはそういう資格を持った人が言ってるからといって、別にその人たちが自分の職業を張ってあるいは自分の人生をかけて予報しているわけではない。気象庁が集めた膨大なデータを、高速コンピュータを使って解析した結果、最もありそうな話というふうに発表されたもののうちで、これは民間の放送で伝えても大丈夫なものというのを選択的に話しているに過ぎない。まさに「予報」ではなくて気象に関する「情報」であって、しかし情報を聞いている人が、それが確率の高い予報だというふうに聞いているんではないでしょうか。よく気象予報士の方が「昨日予報が外れましたけど」と言って、外れた原因を延々と話しますが、これも一種の後出しじゃんけんでありまして、そういうことがもしわかるんだったならば、その事件が起こる前に、あるいは事象が起こる前に言ってこそ科学であると。

 科学の一番重要な点は未来予測ができるということです。しかし、科学は未来予測ができるといっても極めて限られた範囲でしかできない。数学の言葉で言うと線型の世界、linear 直線的な世界って言いますけど、その linear、別に直線に限るわけではないんですけれど、曲線にしても、皆さんが普通に親しんでいる曲線はみんな直線の一種のようなものなんですね。それに対して非線型、直線的でない世界、非線型の世界というのは、予測が非常に難しいわけです。「予測が絶望的だ」ということが、大げさに言えば数学的に証明されている、と言ってもいいくらいなんですね。そういう難しい分野にまで、ある程度近い将来の予測だったらできるようになったということが非常に大きな発展であるわけですけれど、所詮それは「非線型の世界に対して私達が科学的に迫ることが、かろうじてできるようになった」という、ほんの入り口に立っているということに過ぎない。

 地震のようなもの、あるいは火山のような、これは人間から見れば、私達から見れば、非線型の世界の代表でありまして、予測することができないわけです。科学的な予測ができない。言い換えれば、「1年後どうですか」「10年後どうですか」と言われてもわからない。でも、1000年単位とか1万年単位であれば「確実にこうである」というようなことが言える。でも人々はせいぜい100年程度の人生でありますから、10年後にどうであるか、あるいは1年どうなるか、そういうことに関心があるわけですね。

 しかし、残念ながら自然科学は1年後あるいは1ヶ月後のことについて明確な予測をするということができるようになっている分野と、できるように依然としてなってない分野に分かれている、という現実を私達は忘れてはいけない。そして、私達が物理学のように本当に線型的に予測が可能な世界に関しては、私達は自然を全て記述することができるというレベルまで達していると言ってもいいくらいでありますけれども「そういうのが達成できない世界も存在するんだ」ということを、科学という言葉を使うときにはわかっていないといけない。

 コロナウイルス騒動で、いろんな政府の判断、行政の判断、専門家の判断、右往左往しているように私達の目には写りましたけれども「右往左往するしかない」という厳しい現実があるということを忘れてはいけない、と思うんですね。と同時に、私達はそのような脆弱な基盤の上に立って生活しているのであるから、そのために犠牲になる人が出てしまうことに対して、何とかその犠牲を少しでも慰め、小さくするように努力を怠るべきではない。できる限りのことをしていかなければいけない、と思うわけです。

 この数日のニュースを聞いて、感じたことをとりとめもなくまとめてみました。

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