長岡亮介のよもやま話9「多面的な能力を尊敬する心を」

 今日はもう一つちょっとした小さなお話をいたしましょう。最近若い人と話をしていると、何かその時代感覚のずれにびっくりすることがあります。それは、「彼は頭がいい」とか「彼は頭が悪い」という言い方を、何か受験のときの評価をそのまま引きずって語っているということですね。もちろん人間にはいろいろな力があって、頭脳明晰というふうに言われる人の中にも、その自然科学的な厳密緻密な発想で優れてる人もいれば、異なる分野の間の類似性を発見するという独創性において優れてる人もいますし、また、とにかく該博(がいはく)の知識というか、本当に多くのことを正確に知っているということですごい人もいますし、他方で、大雑把な知識ながら実に本質的なところを見抜いているという意味ですごい人もいます。

 一言で言えば、頭がいいというのは決して単純なものでない。ということがある程度歳とってきてわかっていいはずなのに、何か小学校中学校高等学校のときの成績で頭がいいとか頭が悪いとかっていうのを判定してしまうという風潮がいまだに残っていることが、私は何か別の時代に自分が飛び込んできたような違和感を感じてびっくりします。

 例えば私から見ると、今の大学入試センターで行なっている試験、これが成績が良いと言おうと、悪いと言おうと、良い方がいいに決まっているというのもそれなりに間違ってはいないと思いますが、やはり所詮人間の持っている非常に表面的な知識の一面を切り取っているだけだと思うんですね。私が専門としている数学に関して言えば、あそこに出ている問題は数学的にはほとんど無意味な問題、と言ってもいいくらいつまらない問題で、それができようとできまいと、しかもそれが制限時間内でできるかできないかということが、人間の数学的能力を測る上で非常に決定的であるとは思えないわけです。そういう、いわば制限時間内で課題をこなす、そういう能力が必要とされる場面も少なくないと思いますけれど、それはその種の能力を測る上で有力だということであって、その他の能力を測ることができない試験をしている、という試験のあるいは試験という制度の限界の方に目を向けていただきたいと思うんですね。

 人間の持っている能力は実に多様であるということで、頭がいいとか頭が悪いというような単純な言葉で語るのはいかがなものか、と私は思います。例えば私は今、モーツアルトを聞きながらこれを録音してるんですけれども、オーケストラの中でコンチェルトのソリストをやるという人は特に優れた能力の人であるというふうに思いますけれども、ではソリストだけで協奏曲が演奏できるかっていうと、決してそうではない。ものすごく多くの楽器が参加した協奏曲全体としてそれが大きな意味を持ってくるわけです。

 例えば音楽で言えば、ソリストの能力を測ることだけだって難しいことだと思いますけども、例えばフルートが決定的に大事だとか、あるいはバイオリンが重要であるとか、あるいは何でもいいんですけれどもハープが重要であるとか、バレエ音楽なんかではハープが非常に重要な役割を果たしますけれども、でもそれが大事だからといって音楽全体が輝くかっていうと、必ずしもそうではない。やはり息を合わせた全体的な演奏が素晴らしいわけですね。

 人間の社会において、いろいろな人がいろいろな能力を発揮して、全体として優れたものを作るということが大切なのに、いま、頭がいいとか頭が悪いというような、本当に単純な尺度で自分の友人たちを評価するということに、人々が平気になっているということに、私はちょっと危機感を感じます。もっと人間の持っている多面的な能力に対して尊敬する心を持ち続けたいものですね。

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