長岡亮介のよもやま話4「沈思黙考」

 中国のことわざにある四字熟語で、「沈思黙考」という言葉についてお話したいと思います。静かに思い、黙って考えるということの大切さを語ったものだと思います。残念ながら私は出典は知りませんが、このような言葉が日常的に人間にとって大切なものだというふうに、周囲から教えられて育った世代の私としては、現代の人々はほとんどこれを忘れているのではないかというふうに思い、皆さんに私からの遺言のように残しておきたいと思いまして、これを喋っています。

 沈思黙考と並んで似た言葉に、「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉がありますね。英語でもsilence is goldenという表現がありますけれども、華やかに説得力を持って喋ることよりも黙っていること、黙って考えていること、黙って人の言うことを聞いていること、そのことの方がよほど大切だということを言っているわけです。これは沈思黙考と少し似ていますが、私自身は沈思黙考という言葉の方が、より自分に対して積極的な面が感じられて好きです。

 確かに私達が考えるというときには、実は私達の心の中で言葉を行き交いさせて考えている。つまり、私の頭の中で、あるいは心の中で言葉がやり取りされているということ。ですから、決して本当に沈黙しているというのではない。ただ、声を出して、あるいは耳で聞いて考えるというのではなくて、それを心の中であるいは胸の中であるいは頭の中で、そういう語り合いを反復しているということだと思います。考えるということは、そういう言葉抜きでは考えるということは大変難しいわけですが、言葉を利用することによって、我々は人との会話をしているとき以上に、創造的な考えに行き着くことができるということを、いにしえの人々、古人は教えているのだと思います。

 最近どうもこの沈思黙考というのがすっかり失われてしまっているというか、あるいはそのことの重要性が無視されている。場合によっては沈思黙考的な態度というのは消極的な態度、というふうに否定的に評価されるという場面も、段々増えてきているようで、私としてはとても残念に思います。人の心に届く、人の心を動かす、重要ないわば歴史的な言葉、それを発することに意味があるのに、人を扇動するあるいは人の劣情をくすぐる、そういう言葉で表現することの方に重きが置かれる風潮は、結局のところ誰も沈思黙考しなくなったということの表れで、沈思黙考を知らない人たちが沈思黙考をする人々の声を黙らせてしまっている。そういうふうに考えると、最近の風潮は、これはおかしいぞというふうに思うわけです。

 かつては一部の右翼的な言論人から、言葉狩りというような形で非常に表面的な非難を繰り返す人々に対して反対が唱えられましたが、今にして思うと、当時の右翼的な言論人の言っていたことは、当時の彼ら自身には当てはまらないと思うのですけれど、やはりある種の真実がそこにあったということについては、私はフランクに認めた方が良いのではないかとさえ思っている今日この頃ではあります。

 皆さんが、沈思黙考という言葉の意味、その深い積極的な意味、それに目覚めてくださることを期待しています。

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