長岡亮介のよもやま話3「巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」

 私が子供の頃習った言葉に、孔子の論語にあったんだと思いますが、「巧言令色鮮し仁」という言葉がありました。「巧言」は巧みな言葉ですね。「令色」というのは命令の令と色は顔色の色、「鮮し仁」の「仁」はにんべんに漢数字の二を書く「仁」という言葉で、論語では非常に重要なキーワードの一つであると思いますが、わかりやすく、私の言葉で言えば徳が高いということですね。人徳が高い、あるいは立派な人格であるということだと思いますが、「鮮し仁」というのは結局人品卑しい、人格として立派でないという意味です。巧みな言葉を操り、外見をあるいは外面を綺麗に装うこと、というのは人間として本当に品格の高い人のやることではない、という言葉でした。

 そういう言葉を聞いて、私達は綺麗に喋るということについてもあまり大切なことでない、という文化の中にいたと思います。実際、私自身は大学で有名な教授に出会ったとき、あるいはその講義に参加したとき、あるいはまた大学外から来た著名な方の講演会に参加するという得難い機会を得たとき、そういう立派な先生方が書籍では大変にインパクトのある言葉をお使いになりながら、講演の中ではボソボソと、はっきり言えばあまり冴えない、そういうような言い方をしていた、ということが大変印象的でありました。私の時代には大教授と言われる先生方も、講義をするときの口調は決して抑揚のあるものではなく、よく言えば落ち着いた、悪く言えば何を言っているのかわからない、ボソボソとした言いまわし、それがごく一般的でありました。大学というのはそういうところなんだと、学識があるというのはそういうことなんだというふうに、私自身は子供の頃感じたものであります。子供の頃といっても二十歳前後の話でありますね。

 それが今でも続いているわけですが、最近の風潮を見ているとそういう言葉で語られてきた文化がすっかり失われて、全く新しいものにいわばリプレイスされているということを強く感じます。学校現場でも、多くの先生方の授業を参観させていただくと大変に講義がうまい。大学も含めて先生方の講義の仕方はすごく上手になりました。一般の社会人でもきっとそうだと思うのですけれども、とりわけ印象的なのはスポーツの世界です。私が子供の頃はスポーツの選手、その中でも英雄的だったのは、私の子供の頃はいわゆるプロレスラーという人。そして私の少年期にスーパースターだったのは、相撲取りとか、あるいは野球選手でありましたけれども、その人たちのインタビューを聞くと、特に相撲取りはそうでしたが、何とかですねとアナウンサーがしきりとその発言を促す言葉を投げかけるとそれに対して、そうっすね、と一言なんですね。頑張ります、その一言。そういうくらいいわば朴訥な喋り方でありました。ところが最近はスポーツの世界で活躍する人たちも非常に話が上手というか、トークが上手というか、プレゼンテーションが上手というか。皆さんに感動を届けることができてとても幸せです、とか、皆さんに応援していただいて、それが私のパフォーマンスに繋がりました、ありがとうございます、というようなことを堂々と言う。そんな、感動を届けるとかいうようなことを気楽に語っていいのかなと、私のように年寄りはひねくれて考えたりしますけれど。

 心に深い印象を残す感動というのは、私達の人生の出会いの中で最も大切な体験であり、その感動を深めるためにこそ、私達は必死に勉強して、私達の感動の受け皿であるところの私達の教養、そういうものを磨くわけですよね。教養がなかったら感動なんかするはずがない。何もわかってない人が何かを見て感動した、というようなことはあり得ないわけですね。自分が例えば私はできませんが、ピアノを練習して、すごく努力している人であれば、そして一流のピアニストであれば、より素晴らしいピアノ演奏に触れたときに、この人はどういう解釈をしてきたのかということをまざまざと聞かせられて、ものすごい深い感動を受けるのだと思います。スポーツもそうだと思います。勉強もそうですね。自分の内なるいわば感動の基盤、これができていてこそ他の人の素晴らしいパフォーマンス、それが感動を持って自分自身の心の中に強い印象として残る。ちなみに印象ということは、Impression といいますが、インプレス、中に押し付けるってことですね。中に印刷する。中にプリントする。インプレスいうことが私達人間にとって最も大切なのに、何かこの頃はインプレスの反対、それをエクスプレスって言いますね。Expression は表現というふうに日本語で訳すことがありますが、要するに外に出すことです。自分の内側が貧困なのに外に打ち出すことなんかできるはずがないですよね。

 しかし、現在では表現の仕方、いわゆるプレゼンテーション、その能力がとても大切だというふうに思われる風潮があるようで、皆さんとても表現が上手です。感動しますね。YouTubeなんかを見ていてもですね、私はめったに実は見ないんですけれども、その中で本当にプロレスリングの試合のショーの前に、全体を盛り上げるために選手を紹介するものすごく大げさなアナウンスがあります。皆さんの中には見たこともないっていう人がいるかもしれませんが、ものすごい劇的に選手を紹介するわけです。そういうドラマティックな表現というのは、普通日常生活ではしない。しかし、そういう特別な場面ではそういうことを平気で恥じずにやるということが仕事である、そういう職種の人がいるということでありましたけれども、最近は私達の身の回りにそういう人たちがいっぱい出てきて、下手をするとテレビとかラジオの中で重要な情報を伝える人たちまでも、何かドラマティックな演出を自ら買って出るような話し方をするようになってきている。そのことを最近強く感じます。そして話し方が上手であれば上手であるほど、実は話し手の中身がないんではないか、という私の一種のひねくれた感想、これがムクムクと顔をもたげてくるわけでありますね。

 大切なのは堂々とした、あるいは人を圧倒するような語り口ではなくて、やはり語る内容であってほしい。そして、特に若い人々にはプレゼンテーションが大事だ大事だというふうに言われているだけに、本当に大切なのはプレゼンテーションではなくて、プレゼンテーションをするための中身、そのためには自分自身の印象、他の人が感じていないことを感じることのできる感受性、そしてその感受性を磨くための教養、それを身につけることに努力してほしい。プレゼンテーションなんか大事じゃない。そんなものはその辺の役者にやらせれば良いことだ、というふうに私は感じます。

 かつて噺家と言われる職業の人たちが脚光を浴びていた時代がありますが、その噺家の話というのは決して今のプレゼンテーションが上手という話し方ではありません。むしろ、本当に日々交わされる平凡な日常的なトーンの会話の中に、言ってみれば悲しみとか喜びとかヤキモチとか愛情とか、そういう人間的な感情が見事に静かに表現されているということだったと、私は思います。そういうことが段々見失われていく、そういう傾向にあるような気がして、ちょっと今日そういうお話をしてみたいと思った次第です。

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