長岡亮介のよもやま話2「スポーツ番組」

 いわゆるスポーツ番組などで最近よく聞かれる、アナウンサーと一緒に喋る、おそらくはスポーツの同種の競技の過去の実績を持った方なんでしょうが、その方々が選手に代わってその気持ち、いや勝利に向かう意気込みなどについて、あるいは勝利を手にするための作戦について語るという場面がよく見かけるようになりました。確かに本当の意味で世界と戦う、最先端の選手一人一人にかかる重圧は大変に大きなものであるでしょうし、その重圧を乗り越える選手のための自分の中で繰り返される反芻的な手法、それも大変に深いものであると思いますけれども、それを平板な言葉にして一般の人々にわかりやすくするということに本当に意味があるのか、ということについて私はちょっと考えてしまうんですね。

 例えば本当の意味での真剣勝負というような場面に立たせられたときに、多くの選手、最近はアスリートっていう言い方が盛んですけれども、武闘家であっても、まさに真剣勝負というような真剣さが求められる場面では、いろいろなことに思いが、まさに千々に乱れるという状況ではないかと思うんです。迷いもあるでしょうし、その迷いを振り払うために決心をしようと考えるでしょうし、その決心がいや間違っていたかもしれないというふうにまた迷うかもしれないでしょうし、その迷う精神を奮い立たせるためにまた別のことを考えるということもあるでしょうし、いろいろなことが頭の中をよぎる。それは真剣勝負をするものであれば、どんな人でもどんな立場であっても同じようにあるものだと思うんですね。必ずしもスポーツ選手だけが考えてるのではない。ビジネスの世界で激烈に戦っているビジネスマンも、あるいは司法の手続きの中で何とか打開策を探ろうと作戦を練っている法曹関係者も、あるいは子供たちに何とか勉強の核心を伝えようと思っている先生方が子供たちに今日はどういうふうに話を持っていこうと思うようなときも、みんな多くの悩みを抱えてそしてそのときにある不安と期待と希望とそれが入り混じって錯綜して、思いが千々に乱れるということがあると思うんです。

 ライバルがどのように考えているかということも気になることもあるでしょうけれども、最終的には人がどのように見ているかということではなくて、自分自身が自分自身をどのように見るかという勝負に立たされているわけですね。おそらくスポーツ選手もそうに違いないと思うのですが、そのようなときにそれを自分も似たような経験をしているからという経験だけで、さもわかったかのようにスポーツ選手の心の内、あるいはライバルとの競争意識、そういうものについて語って解説する、その解説を聞いている我々自身がいけないんだと思いますが、それを聞いてわかっている気分になっている自分自身に、私は恥じなければいけない。

 私達もその選手と同じように真剣に毎日を過ごしているか、毎日どころでない今その時間をそのように真剣に過ごしているかっていうことを考えなければならないのに、それを漫然とテレビで解説を聞きながら、その選手の気持ちになる。これは幻想以外の何者でもないと私は思うんですけれども、そのような幻想ビジネスを展開している番組の提供者にも非常に残念な気持ちを持ちますが、結局そういう番組を成立させているのは視聴者たちなんだと思うんですね。つまり私達一人一人の責任なんだと。そういうふうに思うと、選手を盛り上げたいという気持ちに私も決して人後に落つるものではありませんけれども、やはり選手の孤独な努力を黙ってじっと応援する、そういう応援者でいたいなっていうふうに私自身は考えています。大騒ぎして応援することも選手たちを元気づけることになるのかもしれませんけれども。選手たちの孤独の気持ちをそれに寄り添ってそれを応援するという応援の仕方もあってしかるべきで、その選手たちの技や選手たちのその技を繰り出すときの孤独感、そんなものを解説してそれを聞いて喜んでいる私達自身の姿を、私はたまには反省した方がいいんじゃないかな。そういうふうに私達がもう少し賢くなれば、番組報道もきっと質の良いものになるに違いないというふうに感じています。
 今日はスポーツ観戦で感じた、全くくだらないと思われそうな感想についてお話ししました。

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