長岡亮介のよもやま話1「天気予報」

 最近天気予報がすごく流行っていますね。私の子供の頃と比べると、天気予報の精度が上がって、天気予報が当たるというふうに言われるようになってきたことがその背景の一つにあるかもしれません。確かに私が子供の頃は交通事故に遭わないように、「天気予報、天気予報」と言うと、そのおまじないが交通事故に遭わない、車に当たらないということのダジャレですけれども、そのように言われておりました。これは一種の天気予報に対する民間の人々の不信感、それをエスプリを利かせていったものだと思いますけれど、それほど天気予報は当たらない、あてにならないものでした。

 それが最近とりわけ気候問題に関しては、お天気衛星という、地球と同じ地球の周りの公転軌道を持ついわゆる静止衛星の力で空から雲の状況を詳細に観察することができるようになったこと。およびアメダスというシステムによって、全国各地点での詳細な気温、気圧などの情報を全国的に容易に集計できるようになったこと。そしてそれに基づいてスーパーコンピューターを使い、流体力学の方程式を数値的に解くということで、かなり予報の精度が上がった、ということがあると思います。気象学に関してはある意味で西の空を観察するという時代から、コンピュータシミュレーションを用いて近くを予想するという、そういう時代になった。そして、それまでは理論的な世界で微分方程式としてはナビエ・ストークスというような形で表されてますけど、それを解くことは絶望的に難しい。そういう状況からコンピュータを使うことによって厳密解はわからなくても、数値的に近似解を求めるということが実に現実的なものになったということ、これが挙げられると思いますね。言い換えれば、まとめると、人工衛星による観察と、アメダスの詳細な観測を用いてスーパーコンピュータで複雑な計算をすることができるようになったということです。スーパーコンピューターの最大の応用目的は気象予報だと言ってもいいくらい、スーパーコンピューターの果たしている役割は大きいに違いないと思います。

 しかしながら、気象というのは数学的に言うといわゆる非線型の世界で、線型の世界のように遠くを予測するということ、遠い未来を予測するということが容易でありません。非線型の世界では近似解に関していわば観測精度のデータを詳細にすればするほど未来予測が正確になるという楽観論を否定する現象、これを数学ではしばしば初期値敏感性とか、あるいは chaos 日本語で言うとカオス、混沌という言葉で表現するのですけれど、未来予測が非常に難しい。明日のことまではわかるけれども、1週間後のことはわからない、というような言い方にした方がいいかもしれません。つまり、近い先までの予測はまあまあできるのだけれども、遠い先の予測はできないということです。こういう意味で長期予報というのは依然としてあてにならないということが挙げられますが、それ以外に、実は気象を巡る問題に関しては、それを左右する因子が非常にたくさんあるということが科学的にわかってきて、しかしその科学的なファクターを計算に入れ込むということがあまりできないでいる。したがって、力学的なモデルとしては大変に古いものを使いながら、気象庁が予想している。その気象庁の出した予報を悪く言えば鵜呑みにして、それを自分のわかりやすい言葉で言い直すというのが気象予報士という奇妙な仕事ができた背景にあるんだと思いますけれども、一般に予報とか予測っていうのは、難しいものです。

 私は子供の頃は競馬場に行くと、その前に怪しいおじさんがいまして、第何レースの何々はどういう展開になるんだっていうことを、詳細にまるで未来を過去に見てきたかのように詳しく話すんですね。だから1着2着はこうなるんだという予報をする。その肝心の予報自身はマル秘情報としてお金を出した人に教える、という予報屋という仕事が成立していました。今はこういう風景を見なくなりましたので、ひょっとすると警察の取り締まりの対象になっているのかもしれません。確かに予報屋というのは危ない仕事でありますけれども、その予報屋さんはその予報が当たらなければ次回からお客さんがつかないわけでありますから、自分の生活をかけて予測予報しているわけですね。買う人も予報屋さんが本当に未来のことを見ている、予想しているというのではなく、この人の情報判断に自分のお金をかけてみようという合意のもとでそれのビジネスが成立してたのだと思います。

 しかるに、今の天気予報士の人たちは、そのようなリスクを負っているでしょうか?私にはそう見えないんですね。気象庁は発表するデータ、それに基づいてさも自分で解釈したかのように予報する。そしてその予報が当たらなかったときに、当たらなかった理由を後付けの理屈でもって弁解する。それを恥ずかしくないと思っているような風情です。私は、予報は外れるものだということが私の子供の頃の世間の常識でありましたから予報は外れてもいいと思うんですね。私はこのデータに基づいてこういう予想しました。しかし私が予想してなかったようなことが起こりました。だから予報が外れました。そういうわけで私の予報は以後信用できないものと思っていただいて構いません。でも信頼できると思った人は聴き続けてください。そのくらいの昔の競馬の予報屋にあったような責任感と責任を取る度量が必要なのに、笑ってごまかすという今の風潮は私はいかがなものかと思ってしまうんですね。それでも人々は心優しく天気予報士の声を聞いている。雨の予報がこうだと言えば傘を持って出る。予報が当たったねと言って予報士を褒め称える。人々はとても寛大になりましたね。

 でも、そのことが言ってみれば、科学的な無知あるいは科学的な理解を深めようとする努力を、自分に対して課してないことの言い訳になっているとすればどうでしょうか?私達は、私達の発言にも、そして私達がこの人の言っていることは本当だと思って行動するときの自分たち自身の行動決断に対しても、みんな責任を持たなければいけないと思うのです。その責任を持つ、最少の責任で構わないのですが、私はこのことをしてしまったために間違ったんだ、と間違ったということに対してやはり合理的な説明をするということ、それを相手にも自分にも求めていくということが本当に大切な世の中になってるんではないか、多くの人が非常に簡単に情報発信をするという、よく言えば情報発信に関しての民主主義というか公平主義のようなものが世の中を支配するようになりましたけど、本当は全ての情報発信に対して責任がつきまとうということ。それは誰が情報発信したものであっても、常に責任を持たなければいけないということ。それを忘れてはいけないんだというふうに思うんですね。この数日の天気予報の大ハズレを見ていて、私は今日、そのことを痛感いたしました。

 予測がいかに難しいものであるかっていうことは、COVID-19でもこの数年間私達は思い知らされたことです。その対策のために科学的という言葉がしばしばその筋の権威から語られてきましたけれども、科学というのは、外れたらおしまい。言えば外れるような予測をするときには、実は科学的な精度の限界を超えて予測をしています、ということを述べることが科学者の責任である、というふうに私は考えているのですが、いかがでしょうか?

 今日は予報に関する難しさ、そしてにもかかわらずその予報というものの実践的な必要性に伴って存在する予測屋、予測をする人、予測を聞く人、その人たちの持つ責任について、私が考えたことをお話しいたしました。

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